先代の思いを受け継ぎながらも、自身の経験から「ヒガシミネ方式」を考案し、マスコミとの苦い経験を乗り越えました
先代の思いを引き継ぎ「保育内容で日本一」を目指した30年
吉沢偉仁(よしざわひでひと)は25歳で園長に就任した際、先代園長(吉澤久子)の「保育内容で日本一になる」という強い思いを受け継ぎました。そして、30年にわたる実践と研究を経て、個を重視した独自の保育法「ヒガシミネ方式」を考案しました。
批判を乗り越えた、発達障害への向き合い方
吉沢偉仁は20数年前、先代の「保育内容で日本一になる」という目標を掲げ、実際に高い評価を受けてきました。多くのメディアに取り上げられ、その活動は称賛されていました。
しかし、12年ほど前に発達障害について発言した際、状況は一変しました。とある新聞社が、園長の意見を十分に聞くことなく、一方的な解釈に基づいた批判記事を掲載し、酷評されたからです。
この経験は、吉沢偉仁にとって大きな傷となり、「マスコミ不信」へとつながりました。特に、記事を書いた地元新聞社を含む2社に対しては強い不信感を抱くようになりました。
その後も、吉沢偉仁はその挫折に屈することなく、自らの信念に基づいて子ども達と向き合うことを決意し、発達障害の子ども達への理解を深めていきました。
学級崩壊を防ぎ、保育士の負担を軽減するためにはどうすればよいか、深く考え抜いた結果、独自の教育法「ヒガシミネ方式」を確立しました。そこに、般若心経の「空」の教えを取り入れ、子どもの捉え方を変えることで、保育士の負担を大きく軽減することに成功しました。
この経験は、吉沢偉仁の信念をより強固なものにしました。外部からの批判に惑わされることなく、子どもの可能性を信じ、保育の質を高めることに情熱を注ぎ続けるようになりました。
東峰保育園園長の吉沢偉仁が、これまであまり表舞台に出てこなかった理由について
表舞台を避けてきた理由:名前とマスコミ不信
吉沢偉仁がこれまであまり公の場に姿を見せなかったのには、もう一つの理由がありました。
名前に込められた重み
偉仁(ひでひと)という名前には、元首相の菅義偉氏の「偉」や、昭和天皇の「仁」が使われており、その意味の大きさに引け目を感じていたためです。また、珍しい名前であるため個人を特定されやすいことも、人前に出ることを避ける一因でした。初対面の人に「いじん」と間違って読まれてしまうことに辟易し、その読みにくさも人前に出ることへの抵抗感につながりました。