器械体操からロシア(モスクワ)へ:若き日の情熱
器械体操にかけた情熱と、深い挫折
中学生の夏休みに見たロサンゼルスオリンピックの体操競技で、具志堅幸司選手や森末慎二選手の演技に深く感動しました。その情熱は、翌日には行動へと移されました。自転車を走らせ職員室に向かい、英語部を退部し、器械体操部への入部を申請。入部条件として課せられた400mトラック50周(20km)という過酷な試練を、何時間もかけて完走し、見事に入部を果たしました。
その後、厳しい練習に日々励んでいましたが、難病が発症してしまいドクターストップ。体操の道を断念せざるを得ないという、深い挫折感を味わうこととなりました。
この経験は、その後の人生に大きな影響を与えています。目標に向かって努力する情熱や、困難に直面した時の心のあり方は、現在の東峰保育園の教育理念にも深く反映されています。
ロシア語との出会い、そしてソ連への短期留学
高校時代にはソウルオリンピックで活躍したスベトラーナ・ボギンスカヤ選手に感銘を受け、ロシア語に興味を持ちました。その感動から、『月刊スポーツアイ』に掲載されていたロシア語講座を独学で学び始め、宇都宮では手に入らないロシア語の辞書を求めて新宿の紀伊國屋書店本店まで足を運び、さらに、NHK教育テレビのロシア語講座を見て勉強に励むなど、その探求心は並外れたものでした。
高校を卒業後、周囲の理解が得られない中、19歳という若さでソ連へ短期留学を敢しました。留学費用をすべて自力で稼ぎ、モスクワ、レニングラード、ヤルタ、ミンスク、ハバロフスクなど、各地で貴重な経験を積みました。
この留学中には、後に上智大学外国語学部教授となる安達祐子氏や、札幌大学教授となる大矢温氏といった、かけがえのない人々との出会いがありました。帰国後も、大学に通いながら日ソ学院(東京ロシア語学院)の通信教育を受講するなど、ロシア語学習への情熱は途切れることがありませんでした。
大学に通いながら、専門学校の通信教育をこなし、塾講師で学費を捻出し、自動車学校にも通って、さらには受験勉強も再び行い、よく頑張っていたなと思います。孤独で苦しい中、宮下巴氏に習うタップダンスの時間がとても楽しかったです。この若き日の経験は、何事にも全力で取り組み、自らの道を切り開いていく、その後の人生の基盤となりました。
若き日の情熱が切り開いたソ連留学
当時、ソ連へ留学する日本人はごくわずかだったにもかかわらず、高校を卒業したばかりの19歳で、単身ソ連への短期留学を実現させました。
(親からは共産党になったのかと)周囲から反対される中、留学の準備はすべて自力で行いました。ビザの取得方法を調べ、渡航費やスーツケースの費用もすべて自分で働いて稼ぎました。くたくたで帰ってきても、独学でロシア語を学び、まだ見ぬ世界へと飛び込んでいったその行動力は、並外れたものと言えるのではないでしょうか。
ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカ・グラスノスチが進む、ソ連が大きく動いていた時期でした。冷戦の終結が近づく激動の時代に、高校卒業後、大学一年生でモスクワへ留学しました。この若き日の経験は、何事にも全力で取り組み、自らの手で道を切り開いていく吉沢偉仁の人生の基盤となりました。
祖父から母へと受け継がれた、ロシアとの縁
園長の吉沢偉仁がロシアに強い関心を持った背景には、家族との深い繋がりがありました。
母方の祖父は、戦前、福井県で会社を経営し、ソ連と貿易をしていました。ジャコウなどの薬の原料を輸入するなどしていたそうです。祖父はロシア語が堪能であったと、幼い頃からその話を聞いて育ちました。
母親は昔、神戸のロシア料理店で働いていたと聞いています。幼い頃、母親がよく作ってくれたロシア料理を口にし、ロシア民謡を耳にするなどしていたため、自然と親近感を抱くようになりました。家にマトリョーシカがあったのも、何となく覚えています。
このように、祖父の貿易商としての仕事、母親の料理や民謡といった家族の歴史が、園長がロシア語を学び、19歳で単身ソ連へ渡るという、その後の人生を決定づける行動の原点となりました。器械体操部だった頃から読んでいた、月刊スポーツアイの影響も大きかったと思います。
多彩な経験が育む、独自の教育観
吉沢偉仁は、幼少期からダンスが身近な環境で育ちましたが、中学時代はロサンゼルスオリンピックに感銘を受け、器械体操に打ち込みました。その後、高校生でタップダンスと出会い、プロのダンサーとして活躍するまでに至りました。幼い頃、テレビでフレッド・アステアが踊るのを見て、当時の記憶からタップダンスを踊ってみたと思いました。フラッシュダンスやフットルース、ホワイトナイツが流行った時代なので、なおのことダンスに惹かれました。
ダンスへの転向
中学時代:器械体操の挫折を経て、高校生でタップダンスと出会いました。
高校時代:タップダンススタジオ「タップパーティ」の増渕香織氏に師事し、ダンスの道を歩み始めました。
大学時代:静岡市で宮下巴氏(荻野幸久氏の最後の弟子)に師事し、タップダンスの技術を磨くとともに、学生サークル「TPU(Tap Party of Undergraduate)」を結成し、リーダーシップを発揮しました。
札幌での飛躍:札幌への転居後、宮下氏の助言でバレエを始めました。スタジオセイビでは、故大塚彩子氏に才能を見出され、タップダンスだけでなく、ジャズダンスやバレエ、エアロビクスも学ぶようになり、表現者としての幅を広げました。大塚氏からはレッスン代不要でレッスンを受けるよう勧められるほど、その才能を高く評価されていました。
指導者としての才能を開花させた、タップダンスの修行
吉沢偉仁は、札幌のスタジオセイビでタップダンスクラスの指導にあたっていました。また、大学ではタップダンスサークルを主催するなど、指導者としての才能を早くから発揮していました。
しかし、その裏には、弛まぬ努力と厳しい修行がありました。
東京での修行:夏休みなどの長期休暇には、札幌から東京へ渡り、故大塚彩子氏のご長男のアパートに居候しながら、集中的にレッスンを受けていました。
レベルアップへの道のり:新大久保のタップイン、渋谷のフルフルカンパニー、そして国分寺の宮下巴氏の下で、毎日何時間も厳しい指導を受けました。朝から晩までタップの練習漬けの日々で、頭がパンクしそうになりながらも、振り付けを必死に覚え、その結果、タップダンスのレベルが飛躍的に向上しました。
この経験は、タップダンサーとしての技術を磨いただけではなく、指導者としての視点や、一つのことを突き詰めることの重要性を学ぶ貴重な機会となりました。その情熱と経験は、現在の東峰保育園での子ども達への表現教育にも深く活かされています。
2人の恩師が築いた、吉沢偉仁のタップダンススタイル
吉沢偉仁がタップダンサーとして確立したスタイルには、2人の恩師、宮下巴氏と加藤邦保氏の影響が深く関わっています。
宮下巴氏:園長が最も憧れたのは、リズムや踊りとしての華やかさを重視する「宮下巴流」のタップでした。しなやかに足を使うそのスタイルに魅了され、宮下氏のタップに近づこうと日々努力していました。
加藤邦保氏:宮下氏との関係を伏せていたため、加藤氏の下でレッスンを受ける際には、足の振り方がバレないかハラハラしていました。加藤氏のタップは、複雑で細かい技術が特徴で、振りを覚えるのは大変でしたが、タップ技術を飛躍的に向上させるのに不可欠なものでした。
このように、2人の恩師から異なるスタイルを学び、それぞれの良いところを取り入れることで、自身のタップダンスを確立していきました。この経験は、現在の東峰保育園での表現教育においても、子ども達の個性や可能性を最大限に引き出すための重要な基盤となっています。