空っぽのたらいに注ぐ、20年先を生き抜く「自律の力」 | ヒガシミネ方式 | 東峰保育園 公式
――病床の福澤諭吉、二宮尊徳の知行合一、そして『般若心経』の「空」が拓いた人間教育
文:吉沢 偉仁
(東峰保育園 園長 / 株式会社子ども・表現活動研究所 会長 / 幼児教育アンバサダー)
はじめに――人はみな、何もない真っ新で生まれてくる
二宮尊徳(金次郎)の教えを紐解く言葉に、「人間はみな、空っぽのたらいのような状態で生まれてくる」という教えがあります。
生まれたばかりの赤子は、財産も、社会的地位も、特別な能力も何ひとつ持っていません。誰もが等しく、何もない真っ新な状態でこの世に生を受けます。
では、同じように空っぽで始まった人生が、歳月を経てなぜこれほどまでに多様な道へと分かれていくのでしょうか。
どうして、自らの足で立ち、困難のなかに喜びを見出して力強く人生を切り拓いていく人と、時代の荒波に翻弄され、自分を見失ってしまう人が生まれるのでしょうか。
その答えを探すとき、長年私の心の支えとなってきた福澤諭吉の『学問のすすめ』の冒頭が、深く胸に響きます。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。(中略)されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、『人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり』とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」
天は人を平等に創った。しかし現実の境遇に大きな差がつくのは、生まれ持った身分のせいではなく、「自ら学んだかどうか」によるのだと福澤は説きました。
そして二宮尊徳もまた、学問について厳しくも慈愛に満ちた言葉を遺しています。
「人生れて学ばざれば生れざると同じ 学んで道を知らざれば学ばざると同じ 知って行うこと能はざれば知らざると同じ 故に人たるもの必ず学ばざるべからず 学をなすもの必ず道を知らざるべからず 道を知るもの必ず行はざるべからず」
生まれても学ばなければ、生まれてこなかったのと同じである。学んでも道理を知らなければ、学ばないのと同じである。そして、道理を知っていても行動に移せなければ、知らないのと同じである――。
福澤諭吉が掲げた「独立自尊(何ものにも依存せず、自らの尊厳を保って自立する)」と、二宮尊徳が説いた「知行合一(知ることと行うことは一つである)」。
表現や生きた時代こそ違えど、二人の先哲が見つめていた本質は同じでした。
「人から与えられた知識をただ頭に詰め込むことが学びなのではない。自らの頭で考え、判断し、正しい道を自ら実行することこそが真の学びであり、人生を拓く唯一の力である」ということです。
上辺だけのスローガンはいらない――東洋の土壌に根ざした教育を
現代の幼児教育界を見渡すと、耳ざわりの良いカタカナの教育メソッドを並べ立てたり、上辺だけの綺麗なスローガンを掲げたり、あるいは有名大学教授のネームバリューを借りて満足しているような、ビジネス優先の園経営が目につくことがあります。
しかし、私にはそのような流行の看板を追いかけるつもりは毛頭ありません。
もちろん、世界中で実践されているモンテッソーリ教育やシュタイナー教育などの自己教育力や子どもの尊重には、敬意を払うべき点が多々あります。
しかし、私たち日本人が、そしてアジアの人々が子ども達に伝えるべき教育の根本は、借り物の舶来思想ではなく、この東洋の土壌で千年以上培われてきた普遍の精神の中にこそあると確信しています。
東峰保育園が30余年の試行錯誤を経て構築した「東峰方式(ヒガシミネ方式)」の根底にあるのは、二宮尊徳、福澤諭吉、そしてボーイスカウトの創始者ロバート・ベーデン=パウエル卿の教え、さらには『般若心経』や『論語』の精神です。
この揺るぎない方針は、机上の教育理論から生まれたものではありません。
不器用で、多くの劣等感を抱え、幾度も死の淵をさまよった私自身の激しい葛藤と、魂の救済の歴史から生まれたものです。
幼少期の孤独、病床の絶望、そして『学問のすゝめ』
私の原点は、決して恵まれたものではありませんでした。
父は病弱で入退院を繰り返し、我が家は大変貧しい生活を送っていました。母は保育園の立ち上げに奔走して多忙を極め、私は親戚の家に預けられて十分な教育を受けることも叶わず、小学校に上がるまでひらがな一文字すら読めませんでした。
さらに、目に障害があったことから周囲に知的障害を疑われ、幼心に冷たい偏見や差別を受ける経験もしました。正直に言えば、幼い頃は自らの境遇と両親を恨むことすらありました。
一人遊びのなかで、誰に頼ることもできず、自分で遊びを見つけ、自分で工夫するしかなかった日々。
しかし、その孤独な時間が、図らずも「子どもの主体性とは何か」を肌で知る最初の土台となりました。
その後、中学時代に親身になって導いてくださった恩師・篠木明先生との出会いによって、「学ぶことの喜び」と「努力の先にある達成感」を知り、私の心に「教育こそが子どもを幸せにする」という消えない灯火が灯りました。
ところが、私の人生にはその後も過酷な試練が立ちはだかりました。
21歳の時、激しい体調不良に襲われ、札幌の脳外科の病床で自由を奪われる絶望を味わいました。さらに37歳の時、生死の境をさまよう大病を患い、自治医科大学病院の集中治療室のベッドに横たわることになったのです。
管につながれ、天井を見つめながら、「なぜ自分ばかりがこのような目に遭うのか」と打ちのめされていたその病室で、私の魂を根底から揺さぶったのが、福澤諭吉の『学問のすすめ』でした。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
人間として生まれ、自らの力で立ち上がり、何ものにも依存せずに生き抜く「独立自尊」の気概。
「人は学問を修め、教養を身につけることで、境遇を跳ね返し、自分の力で道を拓くことができるのだ」という福澤の力強い叫びが、死線をさまよう私の全身を貫きました。
「教養とは、受験のためにあるのではない。人が将来、必ず直面する人生の重い壁にぶつかった時、それを自力で乗り越え、その苦難の中にさえ楽しみを見出していくための“一生の武器”なのだ」
「いつか必ず病室を出て、子ども達の人生を生涯支え続ける本物の教育を実践したい」。あの病床での誓いが、東峰方式の魂の原点となりました。
『般若心経』との出会い――バラバラだった人生のピースが結ばれた瞬間
25歳で先代から園長を引き継ぎ、「保育内容で日本一になる」という志を掲げて走り続けたものの、現場での葛藤は尽きませんでした。
そして東峰方式が真の完成へと舵を切る決定的な転機が、世界中が不安に包まれたコロナ禍の最中に訪れました。
長年複雑な感情を抱き続けてきた私の両親が、ほぼ時を同じくして、相次いで他界したのです。
決して手放しで円満とは言えなかった親子関係でした。しかし、いざ二人が同時にこの世から姿を消したとき、私の心は底知れぬ喪失感と深い絶望の淵に突き落とされました。胸をえぐられるような苦しみのなかで、私は何かにすがるように『般若心経』を手に取りました。
高野山真言宗功徳院住職・松島龍戒先生との尊いご縁をいただき、お釈迦様の教えを必死に紐解くなかで、私の魂を打ち抜いた言葉がありました。
「色即是空 空即是空」
「空(くう)」とは、固定された不変の実体などないということです。
すべてのものは関係性の中で移り変わり、繋がり合って存在している。一つの偏った見方や、過去の苦しみ、固定観念に縛られる必要はない――。その大宇宙の真理に触れ、心が震えていたその時、ふと目の前で過ごす園の子ども達の姿が重なりました。
「現代の社会で、目に見えない同調圧力や枠組みに縛られ、息苦しさを感じながら過ごしている子ども達が、あまりにも多いのではないか」
その瞬間、頭の中に雷鳴のような閃きが走りました。
「この子ども達を、般若心経の『空』の智慧で救い、幸せにできる」
その直感を得たとき、貧しかった幼少期、字が読めなかった屈辱、病室の絶望、福澤諭吉の教え、ボーイスカウトの自然体験――これまで私の人生でバラバラに散らばっていた無数のピースが、猛烈な勢いでひとつの絵画のように復元されていくのを実感しました。
「あっ、見えた」
確かにそう思いました。
教育の目的とは何か。今、目の前の子ども達に手渡すべきものは何なのか。
既存の保育の常識や「こうあるべき」という固定観念を脱ぎ捨て、子どもの本質的な可能性を信じる教育へ――。この覚醒を経て、園の実践は劇的な深化を遂げていきました。
生涯一スカウトとして――自然が教える「自立的思考・行動能力」
この教育を現場で形にするうえで、もう一つの強固な柱となったのが、幼少期から高校時代まで身を置いたボーイスカウト(宇都宮第15団)での経験でした。
創始者ベーデン=パウエル卿が提唱した「誓いと掟」。
神前で誓いを立てたあの日から、私は自らを「生涯一スカウト」であると自認しています。
自然の中に放り出されれば、大人の指示を待っていては何も進みません。天候の急変、火起こしの難しさ、仲間との意見の対立――予測不能な自然の中で五感を研ぎ澄まし、自ら知恵を絞って問題を解決し、テントを張り終えたときの達成感。
一人ではできないことも仲間と助け合って成し遂げる協調性と、他者へ手を差し伸べる奉仕の精神。
教育界では近年「非認知能力」という言葉が盛んに叫ばれています。
しかし私は、長年ボーイスカウトで培った身体感覚と、伯父との対話を通じて得た確信から、これを単なる学術用語ではなく「自立的思考・行動能力」と呼びたいと考えています。
・自ら五感で感じ、環境を観察する力
・指示を待つのではなく、自分で考え判断する力
・仲間と協力し、規律を守りながら行動に移す力
東峰保育園が体操教室や野外活動、緑育(自然体験)に並々ならぬ力を注ぐのは、単に体を動かすためではありません。自然という予測不能な教室の中で、教科書では学べない「生きた自律の力」を育むためなのです。
日本語の言語体系こそが、すべての思考の土台となる
また、東峰方式の極めて大きな特色である「漢字仮名交じり教育・音読教育」も、単なる早期知育ではありません。
若き日、中央大学の大矢温先生からいただいた「母国語である日本語の言語体系が確立していない子どもに、外国語を教えても砂上の楼閣にすぎない」という示唆は、私の教育観を決定づけました。
人間は、言葉を使って思考します。言葉の解像度、語彙の深さこそが、思考の深さそのものを規定するのです。
幼い頃から論語や美しい日本語の響きに親しみ、漢字の成り立ちに触れ、声に出して読む。
それは知識の詰め込みではなく、日本の歴史や東洋の叡智が育んできた「豊かな心と深い思索の器」を、子どもの脳と魂に耕す作業です。
子ども達が読売新聞社賞(音読コンクール全国2位)を受賞するまでに成長した姿は、子ども達自身が美しい言葉の力を自らの血肉に変えた証にほかなりません。
さらに、かつて舞台の世界で大塚彩子先生から教えていただいた「結果を出さなければ、頑張ったとは言えない」というプロフェッショナリズムも、私の指導の戒めとなっています。
曖昧な「見守り」でお茶を濁すのではなく、子ども達一人ひとりが「できた!」という本物の手応えと自信を掴み取れるよう、保育者側も妥協のない環境構成と指導の演出を追求し続けています。
東峰方式が育む「自律」――「自立」との決定的な違い
東峰方式において、最も重要視しているキーワードは「自律心」です。
現場ではよく「自立」と「自律」が混同されます。
「自立」とは、人に頼らず一人で生活や行動ができる状態(他者からの独立)を指します。
しかし、東峰方式が目指すのは、その先にある「自律」です。
自律とは、「自らルールを定め、己の衝動や感情を正しくコントロールし、善き目的のために主体的に行動する力」です。
二宮尊徳の言葉を借りれば、「知って行わざれば知らざると同じ」。
どれほど頭で正しいことを理解していても、目先の欲求に負けて怠けたり、周囲に流されてしまっては、道を知らないのと同じです。己を律する力(自律心)があるからこそ、人は目的に向かって学び続け、他者の痛みに寄り添い、困難に立ち向かうことができるのです。
東峰保育園の子ども達は、二宮尊徳の伝記を読み、映画を観て、日光の二宮神社へ参拝し、尊徳の「幸福論」を自らの言葉で発表します。卒園を迎える頃には、舞台の上で堂々と二宮尊徳の劇を演じきります。
小さな胸の中に、「道を知り、自ら行う」という報徳の精神が、確かに根付いているのです。
尊徳の血肉を今に伝える、中桐万里子さんとの対談を夢見て
私が今、強く抱いている希望があります。
それは、二宮尊徳の直系のご子孫であり、その報徳思想を現代に生きる知恵として温かく発信し続けていらっしゃる中桐万里子さんと、いつか教育対談をさせていただくことです。
机上の学問として尊徳を論じるのではなく、尊徳の血肉の通った哲学を慈しみ深く現代へ繋いでおられる中桐先生のご活動を、私は心よりリスペクトしております。
もし中桐先生にお目にかかることが叶うならば、東峰保育園の幼い子ども達が、尊徳の「知行合一」の教えを胸に生き生きと劇を演じ、空っぽのたらいに自らの努力と思いやりの水を注いでいる姿を、真っ先にお伝えしたいのです。
尊徳先生の精神が、21世紀の幼児教育の現場で脈々と息づいていることを知っていただけたなら、教育者としてこれ以上の喜びはありません。
20年先の未来へ――アジア、そして世界の教育を願って
私自身の歩みは、決して誇れるようなスマートなものではありません。
字も読めず劣等感に苛まれた幼少期から、病床での挫折、現場での職員との意識のズレに悩んだ日々。
それでも、先代園長の志と、現場で献身的に支えてくれる先生方、そして何より瞳を輝かせて応えてくれる子ども達に支えられ、一歩一歩歩んでまいりました。
文部科学大臣表彰や厚生労働大臣表彰、最年少での藍綬褒章の受章といった評価を身に余る光栄として拝受いたしましたが、私の胸にあるのは誇りではなく、ただ「子ども達への責任」です。
幼児教育の本当の成果は、卒園式の日に出るものではありません。
子ども達が園を巣立ち、やがて20年後、厳しい現実社会の中で壁にぶつかったその時にこそ試されるのです。
激しい社会変動に揺れる現代において、日本のみならず、アジア、そして世界の子ども達に必要なのは、偏差値や上辺の知識ではありません。
「空っぽのたらい」に、自らの努力で知恵を注ぎ、己を律して困難を乗り越え、他者の幸福を自らの喜びとして共生していく力――「自律の力」です。
私たちが宇都宮の地で紡いできた「東峰方式」という実践と思想が、国境を越え、次代を担うアジアの教育者や保護者の皆様にとって、子ども達の20年先の幸福を照らすささやかな道標となることを、心より願っております。
【取材・講演・執筆・園見学に関するお問い合わせ】
東峰保育園ならびに株式会社子ども・表現活動研究所では、幼児教育の発展や地域・国際社会への貢献を願い、メディア取材、大学・教育機関等での講演(リカレント教育・指導者研修を含む)、執筆、ならびに園見学のご相談をお受けしております。
社会福祉法人久祐会 東峰保育園
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